根性なし讃歌

「根性なし」

父親に昔から散々言われた言葉だ。

宿題を途中で諦めたら「根性なし」
習い事をやめたら「根性なし」
試験で受からなかったら「根性なし」
病気になって苦しんだら「根性なし」
仕事を辞めたら「根性なし」

何かにつけて「根性なし」と言われ続けた。だから私は「根性なし」になった。

そのことを父親に宣言するとやはり「根性なし」と言われた。ただ印象的だったのがあれだけ「根性なし」と言っていながら私から「根性なしです」と認めたら「なんで根性なしなんだ!」と驚いていたこと。いやいや私にあれだけ「根性なし」って言っていたんだから、私が「根性なし」だってことくらい知っているものかと思っていた。

さて、「根性なし」とはなんだろう?いまいち「根性」という言葉が私には理解しがたかった。「気合い」とか「根性」とか目に見えないものは胡散臭いように思っていたから。心霊商法の一種に近いくらい信用が置けなかった。

「根を詰める」という言葉がいわゆる何かを諦めず、とにかく頑張ることだとすれば、「根性」とは「頑張る」と同義だろうか?

だったら確かに私は「根性なし」だろう。頑張るということができないから。

昔から頑張ることは苦手だった。

だが、頑張らないことで今は結構生きることができている。

逆に昔は父親に「根性なし」と言われるのが嫌で無理くり頑張って根性を出そうとした。

しかし、結果として散々な目にあった。

まず、辛かった。歯を食いしばって努力しても何も楽しくなかった。いくら頑張って英語の単語を無機質に覚えても、文字の書き順を練習しても、意味不明な数式を解こうとしても、ちっとも面白くなかった。

自分がやりたいことでもないことに必死に耐えて根性を出そうとしても何もうまくいかなかった。むしろ、うまくいかなくてイライラしたり、泣きたくなったりした。

次に自責の念に駆られた。「うまくいかないのは自分の努力が足りない。根性がないのがいけない。」そんなことを考えては自分で自分に辛く当たった。そんなことをしても何も意味がなかったのに。

最後に病気になった。そんなことばかりしていたら精神的に参ってしまったのだ。統合失調症を発病し、人生の青春期を病院で過ごす羽目になった。これは人生における損害だった。

以上が「根性なし」のくせに「根性」に頼った末路だった。

その後、考えを改め、「根性なし」であることを受け入れて「頑張る」ことをやめた。

すると、人生がとても生きやすくなった気がする。

何か苦難があったらすぐに逃げたり、諦めるようになった。そして自分のやりたくないことの大半を投げ出し、自分の好きなことに集中するようになった。

それでも今現在、なんとか生活している。そう思うと根性なんて今の時代に不要なものかもしれない。

逃げて逃げて諦めてもう逃げきれないなら少し頑張るくらいがちょうどいいのだと思う今日この頃だ。

そもそも地球上の生物なんてみんな目の前に困難が降り注いだら一目散に逃げるものばかり。よほどのことがない限り頑張るものなんていないだろう。

そう考えると「根性なし」になれてよかった。じゃなかったら今頃この記事を書く前に根性出しすぎて死んでいたのではないかとさえ思う。

「根性なし」万歳!!

コメント

タイトルとURLをコピーしました